マンガ感想:この世界の片隅に 第40回・・・20年9月
漫画アクション誌。2008年10/21。№20。こうの文代・作。
最近、作者こうの文代が、今回の枕崎台風に、今更になってきた「神風」と、家族全員で大笑いするエピソードについて、田中小実昌の「アメン父」に示唆を受けた旨、コメントを書いているのを見て内心焦った。
同書、講談社文芸文庫版をずっと前に買ったきりで、全然読まずにいたことを思い出したからだ。そこで、慌てて本棚から探し出し、文中を探してみた。該当箇所と思しき一節を見つけた。
『神風はたしかに吹いたが、戦争に負けたあとだった、とこれも語り草になった。このことを、神風が吹いたのは戦争に負けたあと、と人々が自嘲したというふうに書いているものがおおいが、自嘲よりも、もっとふつうのわらいかただったのではないか。戦争に負け、あげくに台風の被害もうけて、ふんだりけったりなのに、それでも自嘲ではなく、わりとふつうにわらっていて、いかにニホン人はあきらめがいいというか、根が健康的で、・・・なんてことはちがう。しかたなくでもただわらっている。でも、こういう場合、自嘲して、と書くのがふつうのパターンなので、これまたふつうに自嘲したとかいたのではないか。』
全編、このように、だらだら語るような独特の文体と、ひらがなを多用し句読点を減らしたような文章で、呉の牧師であった自分の父親、信仰、宗教について、考察した長編エッセイだ。
このくだりを繰り返し読み、こうの史代の今回のマンガを想起すると、感動を覚えた。私が創作講座の講師だったら、この2作をテキストにして、「エッセイの一節から物語を創作してみよう」というテーマで実習をやるね。
「アメン父」の方を読むと『語り草になった』『おおい』とあるように、先人達の既知の事実と表現を田中小実昌が考察している。しかし、何故に人々が『自嘲』ではなく『ふつうに』笑ったのか、までは考察していない。
こうの文代が、これを読んだ時の気持を勝手に想像してしまった。物語作者であるこうの史代は、考察ではなく、自分が「ふつうに」笑えるシチュエーションとドラマを構築してやろう、と意気込んだのではないか。燃えたかもしれない(笑)。
今回のマンガを読む時見逃してはいけない、作者自らのペンで一頁目の欄外注に『死者は一一五四名』と描き込んであることを。その上で、最後まで読めば「笑うしかない」「笑える」「笑わせる」マンガに挑んだのだ(?)。
「笑った」という否定しようのない事実の重さに、フィクションの力で挑戦したのが今回のマンガだ、と現在の私は結論付けている。しかし、その結果に対する私自身の考察は、あまりにも重過ぎてまだ出来ない。でも、私は、今回の「笑い」にすがすがしさ、潔さ、爽快さを感じている。
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