カテゴリー「吉田とし」の記事

2015年3月15日 (日)

吉田とし という児童・青春小説家がいた その20

「むくちのムウ」吉田とし 作。鈴木義治 絵。あかね書房 あかね新作児童文学選・5。私の持っている版の奥付は1975年の第5刷となっている。
前書きに「友だちってなんだろう、ぼくはひとりでかんがえていた・・・」とある。
5月のある日突然、六美くんという少年がものを言わなくなった。そんな彼を巡って先生、同級生の一人一人の反応、対応は・・・。
これは、今で言うなら実験的手法というべきか。ものを言わなくなった少年が問題、ではなくて、彼はむしろ狂言廻しの役割で、主題は彼を巡る周囲の人々の当惑や対応にある。かつての小学校の先生は、この作品を読ませて、児童達がどう対応するか考えさせる、という副教材のように用いたこともあるらしい。
六美くんことムウくんをやさしく気遣う少女。からかう少年。彼の態度を一切気にせずに普通に接するおじいさん。当惑して独り涙する先生。やがて怒りだす子供達も。そしていらだった子供達が集団で襲いかかり気を失ってしまったムウくんは、気がつくと先生に「みんな、きばがあったよ先生。あの顔、友だちの顔じゃなかった」そして、ムウくんは、家の都合で突然インドへ行ってしまった。先生に作文を残して。その作文は、<<むくちのムウ>>・・・そして本書の本文の冒頭が書かれていて・・・という循環構造だか円環構造とかいうやつ(文学用語は分からんが)になっている。
異常な事態に当惑する周囲の動きの描写がシンプルながら今読んでも実にリアルに感じられる。やはりこれは、突然の非日常的な事態が現実(リアル)に生じた時にこそ友達とは何なのか、友達として対応するとはどういう事なのか、どう対応するべきなのか、と色々考えさせるテキストとして書かれたのだろうと、私は追認するしかない。
そして2015年の今も、様々な事件を通じて、当事者と周囲の自他の関係の在り方は問われ続けているではないか。そういう意味で本書のテーマ?は今もリアルで重いのではないだろうか。

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2015年2月 6日 (金)

吉田とし、という児童・青春小説家がいた。その19

「燃える谷間」吉田とし 作。藤澤友一 絵。文研出版。「文研じゅべにーる」叢書。私の持っているのは昭和52年の第2刷だが、マルCマークの脇には1976 とある。
関東地方の山地の村を舞台に、高度経済成長期の汚点、土建屋行政の恩恵に浴した地域の有力者と保身のために有力者におもねる大人達、その横暴から出た不始末の濡れ衣を着せられた少年とその家族の苦悩と、広がる悪意の連鎖、とくればどこかで聞いた話、よくある話と思うかもしれないが、21世紀になった現在でも、そう感じるという事が問題だ。つまり未だ問題の本質は生きているという事がこの国の現実だ。
しかし、作中に、やはり子供を有力者の横暴で失って、いわゆる頭のおかしくなった女性が登場するので、女史のファンには残念ながら、再び世に出にくい作品かもしれない。読んでみた私としては、差別的表現も悪意も不分別、無思慮も感じられないと断言する。
さて、本書は、今時の饒舌な小説とはことなる。地域住民の多数派の横暴と悪意の連鎖に、少数の人々が透の無実を信じて真相を探る、余分な説明は一切省いた簡潔で歯切れのよいサスペンスミステリー形式の文体だ。ん?、これはむしろハードボイルド文体というべきか?。
少年、透(とおる)の無実が明かされるラストの場面。有力者の手先となって散々、透を罵倒し陥れ続けた男が、逆に罪を着せられそうになると、透はオジサン(が犯人)ではない、と叫ぶ。その時の描写を以下引用する。
『ハッとしたようすで、透にふりあげたこぶしをおろした。』これだけだが、男の心境が一転したことが実に明快だ。そしてこの後、ややあってから男は、真実を暴露してその場を立ち去る。話の最後もエピローグとか後日談はない。締めの一文は、
『みんなは、透のことを思っていた。そして、透や透の一家につらくあたった人たちは、じぶんのいったことやしたことを、だまってじっとみつめていた。』
これだけだ。くりかえすが己の罪を『じっとみつめていた』と表現している、子供にも分かる簡潔明瞭さ、しかも子供の物語とは思えない程鋭く、余韻が残る。

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2014年8月24日 (日)

吉田とし、という児童・青春小説家がいた。その18

「春の祭り」中篇程度の分量で、実にテーマは盛り沢山。地方の漁村地域の私立女子高生二人が主人公。地方の祭りの太鼓叩きの若い男性の男らしい魅力と女人禁制という伝統行事にありがちな男尊女卑への批判的視点。初恋。地方の青年達の誠実と不実。実の父親による娘への近親相姦という衝撃的な性。女子同士の友情と心身ともに受けた傷の癒しなど。
青年の名セリフ『つらい経験をしたあなたが、毅然とした態度で生きてる姿を見たら、ぼくは感動するだろうと思う。(中略)なんてきれいな女性なんだろう、って』
エピローグは、青年二人と主人公の二人だけの新春の祭りでタイトルテーマに至る。それは伝統の祭りではない、新しい性と生に立ち向かう男女の新しい未来形の祭りへの期待と願いか。
具体的な時代も地域も特定させない簡潔さと、それでいて地に足のついた詳細な叙述と誠実な文体で普遍性と土着性のある生と性の姿を映すことを目指した意欲作、と私は感じた。

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2014年8月19日 (火)

吉田とし、という児童・青春小説家がいた。その17

「誰かいませんか」「誰もいませんか」内容から1970年頃、学生運動の高揚と失意から落ち着いた時期と推量した。政治性はないと思う。主人公は共通の男子高校生で文芸部所属、「オレ」一人称で統一された2作。作者自身が語りの人称に新味をだすことで気分一新を図ったのかもしれない。あるいは読んだこちらが政治性社会性を探し過ぎているのかもしれないが。
「誰かいませんか」は、クラスメートの高校生カップルを正式に結婚できるように、主人公が奔走、二人の親を説得して承諾させてしまうという、大真面目な熱血ものだが、どこかしらユーモアと知性や教養も感じさせる。高校生同士が結婚すること自体よりも、それを当人ではなく友人の高校生が一人で大人を説得してしまう展開が異色か。あるいは一つの錬金術か。それとも学生運動の時代を経た当時の若者の器量に女史が期待を込めた作品だったのかもしれない。うーん、やはり私自身が政治性を探し求めてしまっているのか。
さらに、四畳半一間で始める高校生夫婦の生活、これは時代だねえ。
「誰もいませんか」は、前作から半年後、その主人公の男子本人の恋。東京の医者の娘で自由闊達な高三女子と秋田の親戚で早くに両親を亡くして卒業後は就職を考えている、純朴な同じ齢の女子との交際で揺れ動く心理を描く。但し、さすがにこの対照は図式的か。結局どちらも恋は成就しない。

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2014年8月14日 (木)

吉田とし、という児童・青春小説家がいた。その16

「友情の設計」私が読んだのは、コバルト文庫版だが、おそらく1960年代の作品だろう。やや短めだが、予想外に面白かった。シンプルさ故に次から次へと登場する登場人物の会話とストーリーテリングのテンポの良さに、女史の技巧が冴える。
静岡の私立高校一年のクラス内のある班の5人の一学期と夏休みを描く。男子3人、女子2人が、理想的な友情を育もうと意気込むが、いきなり女子の一人が校内のハプニングに出くわす、当事者のプライバシーの為に秘密を守ろうとするが・・・当然、集団生活の場、秘密を完全に守れること等ありえない、目撃者、噂の連鎖、善意と悪意、友情と秘密を秤に掛ける立場に追い込まれ、と、あれよあれよという間に話はこじれ・・・。
今日のサイコホラー小説だったら、悪意による噂、ウソが一人から共同体に広がり、やがて疑心暗鬼に包まれて崩壊・・・というドラマになるパターンだが、女史は、ほとんど登場人物の会話だけで、テンポよく話がこじれていく(我ながら変ないい方だ)。
「親友」にこだわる女子の独占欲、異性への憧れ、「友」として信頼を得られなかった=頼られなかった不満etc.に加え、登場する少年少女一人一人の家庭の事情もからんできて、物語が変化に富んでいて飽きさせない。
結末は、当然崩壊では終わらず、根が純真な彼らは、直に反省して和解するので気持ちよく読了できる。
この間、彼等の間を巧みに取り持つ、いわゆるいい奴が、「敦子 この花の影」にも中学三年生として登場し、やはり脇役としていい味を出していた、画家志望の男子で自称ゴッホ。小柄で「ですます」調でとぼけたことばかり喋るが、出しゃばらず、何も知らない振りして実は皆をよく見てる。そして他人のピンチを察して先回りする。他に作品でも会えるかもしれないな。
また、本作を読んで改めて思ったのは、女史の物語の舞台装置というか事の発端として、よく急性の病気が使われる。急性盲腸炎から、特殊なケースまで、本作ではポリープによる出血など、作品ごとに色々で同じものは出て来ない。こういう工夫?が物語から浮くことなく、自然に描かれるところが、女史のエンターテイメント作家としての持ち味でもあるようだ。

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2014年5月13日 (火)

吉田とし という児童・青春小説家がいた。その15「余話」ジュニア小説は読者を見落としたのか

私には、的確な定義に基づいたことは言えないが、吉田とし女史の10代向け小説=青春小説は、「ジュニア小説」と言われた、集英社の「小説ジュニア」を中心に?、10代向け月刊雑誌文化全盛期(十代に限ったことではなかったかもしれないが)時代の作品だった。
この時、読者の反響も、小説の内容が自分達の生き方に照らして、よりリアルであることが求められ評価されていたという。だがこの事実に基づいた創作活動は、今考えるとどうだろう。私の想像に過ぎないが、こういう、あえて言うならマーケティングのやり方は、欠点がある。反響を寄こす読者だけを相手にしており、反響を寄こさない読者、未だ読者になっていない、いわば潜在的読者層の掘り起こしを忘れたのではなかったか。たとえ、カラーテレビ文化普及以前、政治の時代、怒りの世代の時代etc.・・・であったとしても、小説に非リアル、ロマンを求めない若者が少なかったとは限らない。
何でこんなことを書くのかといえば、例えば女史のサルピナ を読むと、こういう作風にも筆力が十分に活かされたのにと思われ、残念だからだ。ジュニア小説は、読者を意識し過ぎるあまり、見えない読者、未来の読者を失ったのかもしれない、と当時を知らない勝手さ、事実誤認故にか?、思うことがある。

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2014年5月 5日 (月)

吉田とし という児童・青春小説家がいた。その14胸の痛くなるような思い出

「ぼく・わたしの六年二組」吉田とし作。安徳 瑛 絵。私の手元にあるのは、偕成社版叢書「子どもの文学22」
吉田とし女史お得意の小学生の一年間を描く連作短編集だ。この作品に関しては先ず構成の巧みさが際立つ。「ぼく・わたし」とあるが、全て男子を主人公にしてその視点から女子との関係を描いている。今はどうか知らないが、昔は小学校教育定番の一学級内の班活動を通じて、一話ごとに各班内の男子と女子の出来事を描いている。
そして何故こんな構成になっているのか、作者のあとがきを読むと分かる。これまた女史の十八番、学習雑誌一年間の連載ではなくて、1970年代に、異なる学習誌に別々に発表した短編を、同じ一クラスの一年間という構成に書き直したのだ。短編を一冊の本にまとめる時に書き足して前後をつなげることは昔から珍しいことではないが、今時の小説、実写ドラマは言うに及ばず、アニメと対照してみると、多視点ものとして珍しくなくなったが、キャラクター描写の多角化、リアルドラマの複雑な作劇、として作り手の技巧が問われる手法と見ることもできる。
女史の筆先は、班内のエピソードを独立した個々の作品として読ませつつも、やがてエピローグの、修了式当日の皆の別れのあいさつに全てを収束させていく。読者には全てが分かっているから、各児童のはっきりとは言えない、しかし伝えたい相手と言葉がある、その思いに胸を打たれる。
理屈はともかく、一つ一つのエピソードがいい。今時の小説のように好きだの、恋という言葉は一切出さず、かといって恋だけに限らない、疑い、疑われる女子の辛さ、ある男子のついた小さなウソを見逃せず、秘かに真摯に非難する女子の思い、さらにそれを受けて知る良心の呵責、女子の心の痛みを知ってしまった男子の複雑な心情など、様々な状況と巧みな言葉で描くかと思えば、精神的に一足先に大人になっている女子の鷹揚さに表面では素直になれないが内心では全面降参している男子の子供っぽさと辛さを共感を誘いつつ描く。自分のあの年頃を思っても胸が痛む作品群。

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2013年11月29日 (金)

吉田とし という児童・青春小説家がいた。その13 どこかにいるようで、みんな違う小四

「あの子が三十五人」
私の持っているのは、旺文社ジュニア図書館。1977年(昭和52年)刊。挿絵:西村郁雄。作者の後書きによると、小学館の学習雑誌「小学四年生」1974年四月号から「とおせんぼう」というタイトルで一年間毎月連載された連作12篇かた7篇を収録したもの。本篇読了後、この件を読んで、極めて残念だったのは残りの5篇が読めないこと。吉田としの小説なら、12篇どれも面白くて、一つとして同じ話は無い筈だからだ。
そこで思い出すのは、
「四年一組のおひめさま」
私の手元にあるのはフォア文庫の1985年版(挿絵:大古尅己)だが、やはり初出は「小学四年生」1975年四月号から「よいちのひめ」というタイトルで一年間連載された連作(1篇が2カ月にまたがるエピソードもあるので全8篇)だ。つまり、吉田とし女史は「とおせんぼう」を連載した「小学四年生」誌に続けて「よいちのひめ」を連載したことになる。しかも、常に、小中高、それぞれの学年対象の月刊誌のどこかに児童小説、ジュニア小説の連載を執筆し続けていたのだから女史の筆力は驚くべきことだ。
そして「よいちのひめ」の連載時、私はリアルタイムの小四で、毎月これを読んでいた。
今読んでも、飽きないどころか、入り込んでしまいそうなほど、一つ一つのエピソードが胸を突く。別にリアルでハードだから、ではないと思う。時間を経ても、臨場感に富んだ、それでいてシンプルなエピソードの数々。それは1年間大勢の同じ齢の子供達が同じ時間を過ごす。決して楽しいことばかりではない。どうにもならないこと、好きになれない子、好きな子が絡みあい続ける、思いがけないことが起こる日々。自分の体験と物語が頭の中を駆け巡る。子供にとって集団生活は判で押したような日々の繰り返しなどない。
ただ、その日々の渦中でも物語に惹かれたのは、当然自分にはないエピソードを「自分から動いてなんとかしようとする」子供達がいたからではなかったか。で、何とかうまくいったのか?。いくこともあれば、いかないこともある。その可否に「絶対」はない。
そうだ、女史の描く主人公の行動に「絶対」はない。それでも、何かが変わることを信じて主人公は行動する。そこに「共感」できたからこそ、女史の作品は子供達に愛されたのではなかったか。

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2013年5月11日 (土)

吉田とし という児童・青春小説家がいた。その12

★「由香*フィフティーン」「あき子*風を見たわたし」
吉田としジュニアロマン選集収録作。私は朝日ソノラマ文庫収録版で読んだ。「由香」は「フィフティーン」として1969年4月から「中三コース」に一年間連載された作品だという。プロローグとエンディング中学3年の一年間の藤巻保と永井由香の交換日記で構成されている。恋愛ではなく。異性のお互いの生き方を見つめ合い、その考えを綴っていきたい、という保の提案に由香が呼応して物語は始まる。まさに隔世の感とはこのこと。一口で言うと二人とも「大人だねえ」と。生々しい表現は一切なく、健全な言葉遣いで、二人の仲を噂するクラスメート、先生との議論、ホームルームのクラスメート達との話し合いや、提案、二人のあつれきや憤り、などエピソードも健全というか真摯な取り組み方が今読むとまぶしい。「あき子」も1966年の「小説ジュニア」に発表されたらしい短編。高一の少女の若い教師への秘めたる想いだけの爽やかな小品。
★「霧の中の館」1979年の長めの中編ぐらいか。コバルト文庫で読んだ。謎の青年に軟禁された高校生の男女二人の一夜の不思議な体験。霧の中に建つ陸の孤島状態の館のなかで、青年は、特に高圧的、恐喝的かと思えば、教養にあふれ、ロマンを語り、食の蘊蓄や家族関係に付いてを語ったり、腕っ節は強く・・・と、多分当時としても「コレクター」とか連想したりしたと思うし、現在なら監禁ものやサイコサスペンスなどを連想してしまうが結果的には、実験的な手法で人生の今この時々の大切さを訴えたものだろう。リアルさが求められたジュニア小説で、吉田とし女史がこのような手法にも挑んだのかと思えばインパクトはあるがあまり成功しているとは思えない。
「このあたたかな場所」同時収録の1970年の短編。デザイン系の短大生が、フリーセックスに興じた姿を描くが、そのさ中でも友情と真摯な愛の存在を信じ、愛しあえる男を見つけるまでを一気に描いた。背景に学生運動もうかがわせ、政治の時代の高揚感の後の虚脱の空気への不安感が無意識に現れた文体なのかもしれない。
★「コバルトブルーの詩」コバルト文庫版には1979年一月とある。16歳で恋人と結ばれた亮子は、この後を第3の時間と名付けて、二人の理想の生き方を求めながら、彼となかなか会えない日々を独り苦悩する。心と体のバランスがまだ巧くとれない年頃の心理か。タイトルにあるように、最後に登場する詩に作者お馴染み、空の青さへのこだわりが表れる。
[追記]
やはり何でもかんでもただ絶賛するという訳にもいかないようだ。上記ジュニア小説まとめ読みしてみると、1979年の作品は、私自身の実年齢と登場人物の年齢がだいたい同世代であり、年表を眺め世相を回想し、当時のコバルトやソノラマのラインナップを批評したり、思い出を語るサイトなどを参照してみると、その文体の美しさとテンポの良さ、心理描写の瑞々しさ等技術は時代を超えて素晴らしいが、内容的には既に時代遅れではなかったか。所謂児童書を読んだ時には、それ程気にならなかったので、これは今後の私の課題としたい。

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2013年5月 8日 (水)

吉田とし という児童・青春小説家がいた。その11

「ベルとベルのあいだ」杉浦範茂(すぎうらはんも)画。あかね書房。あかね創作児童文学・7。1977年刊。
現実に登下校中の小学生に対する誘拐とか痴漢行為が社会問題化した世相を背景にしたと思われる作品。当時は私も実際に世田谷区の小学生だったから、私は遭ってないけれど地区に変なおじさんが出た、すわっ、と学校から注意のプリントが配布されたものだ。
杉並区の小学四年生の少女をからかう、いつもこの地域を自転車で佃煮の行商をする青年は、よい人なのか本当は悪人なのか?。突然自分をいじめる五年生の男の子は恐い子なのかそれとも?自分を無視する同学年の子供達は何なの?
そして少女もまた、チヤホヤされる同級生の女子をねたんで嫌がらせした自分の中の悪意に思い至り、意に介さなかった目立たない子が意外に思いやりにあふれていたり・・・ある日突然、少女は日常の中で他人のそして己の裏表、善悪の二面性に直面する。
最終的には多少の犠牲を払いながらも誤解は晴れ、少女自身も自分を無視する子供達に積極的に声をかけるようになって、幸せになるが、このような一瞬にして反転し得る人間の二面性は、結局外見の印象でしか判断できない、好意と悪意の判定が出来ない人間の心の限界を露呈したものだ。
あれから三十年以上が過ぎた今日、このシンプルな物語を読むと、さらに不安なシチュエーションを、バッドエンドをいくらでも予想してしまい、拍子抜けするかもしれない。だが、作品が古びたと言えるだろうか、むしろ私達の心を蝕んでいるものを見直すきっかけではないか。

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