カテゴリー「濱野京子」の記事

2017年9月30日 (土)

本感想:ビブリオバトルへ、ようこそ! 濱野京子・作。森川泉・絵。(あかね書房)

Photo「ビブリオバトルへ、ようこそ!」濱野京子・作。森川泉・絵。(あかね書房)
濱野京子の小説は、描写に共感することが多いので読み進まなくなってしまう、とこれまでも度々書いてきたが、今回はまた一段とその状況が長くなった。何しろ書評=本の感想と学校図書室がテーマだから、あまりにもツボだ。
ここのところ、ビブリオバトルのことはなんとなく見聞きしていたが、児童書のタイトル、テーマとして、色々な作家に競作させているようだな、位にしか、感じていなかったが、こうして、実際にビブリオバトルテーマの小説を読んでみていると、ずっと昔、書評と言うのはいかに面白そうでも、読者も書評の書き手にシンパシーがないとだめではないか、と漠然と考えていたことを思い出した。ビブリオバトルは、紹介者の色々な意味での「顔」が見えるんだな、その点だとまだ、バトルである必然性は感じないのだが。
さて、本書のヒロインは、好きな男子につられて本を読み始め、彼にアピールするために、ビブリオバトルに参加する、という動機だ。他にも、参加者は、本好きとは限らない、動機は様々、本好きでも参加拒否する子もいる。そこがドラマであり、読者は、そのいずれにも共感できるところがいい。
この過程こそが単なるブックレビュー、今時で言うところのブックトークとの違いか。
バトルそのものだけを考えれば「本」を巡ってなぜ競い合う、と疑問を呈するのは当然だが、競い合うことで技術は向上する、そう、読書感想文のテクニックがこれまでの国語教育には欠けていたのだ、他者の存在とその重要性を意識するようになる、翻って個性も顕現する。
※私自身、韓国の純情漫画(少女漫画)のレビューについて省みるところが大きい。
※絵は、著者のあかね書房からの前作「アカシア書店営業中!」の森川泉、作中にもアカシア書店が「ゲスト出演」している。そして気が付いた、同作に続いて本が媒介する「場」の存在を訴えたかったのかもしれない。
※ヒロインの祖母が本への誘い手としていい味を出している。本は世代をつなぐのだ。
※韓国ネタがあって当然私としてはニヤリ。
※「ビッグイシュー」誌は、私も購入するようになって延べ三百冊位の筈だ。
※ヒロインが最後に紹介する本は、やはり濱野京子だ、と思わせる。

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2017年4月26日 (水)

本感想短編二題: #がんばっている君が好き(絵 #結布 ) #秘境ループ #濱野京子 作

二編いずれも2016年発売のテーマアンソロジー短編集に収録された濱野京子の作品という以外、具体的な発売時期、意図も、出版社も、他の執筆者も異なるのだが、私という主体が、今この時期に、立て続けに読んだという行為を介すると、共時性や共感が色々現れる。
かたや舞台が図書室と言えば、私も色々思い入れがある方だと思うが、日本の図書館行政の貧しさは今に始まったことではないし、俗にツタヤ図書館といわれる司書とコーヒーを秤に掛けたような、それ自体図書館の魂を売ったような事実があるし、ちょいと視点を変えれば、ごく最近「博物館の学芸員はがん」などと暴言というより己の知性すら貶める発言をする政治家もいるし、と残念な話題に事欠かない。
さて、肝心の本編を読めば、短編なのであまりネタバラシはしたくないが、どちらも初恋の成就に願を掛けながら、かたやリアルに誤解というほろ苦さ、こなた幻想に所謂「悪魔の取引」のバリエーションまで加えて複雑な構成を組みながら、読み終えると実はどちらも、願掛けは本当に必要だったのか?、これからも願い事は可能性を残しているではないかと考えさせる。
両作品とも願い事という奇跡を望む少年達の姿を描きながら、その価値を否定しているのではないか。特に図書室を舞台にした方の作品では、奇跡の価値の否定を問いつつ、加えて幻想に誘う存在として司書を描くことで逆説的に司書は結果を保証してくれる存在ではなく、知の導き手であり、その在り方を間違えてはいけない、という読み方もできるのではないか。さらにジェンダーへの理解共有の為に少年の男女のそれの固定化も否定して描いていることも忘れてはいけない。

「がんばっている君が好き」小学館。「あまからすっぱい物語」シリーズ第1巻。※絵を担当している「結布」は、現在、上橋菜穂子の「闇の守り人」の漫画化を連載執筆している方じゃないかな。
「秘境ループ」講談社。「ぐるぐるの図書室」収録。装画・挿絵/くまおり純。

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2017年4月 8日 (土)

本感想: #ことづて屋 寄りそう人 #濱野京子 作 カスヤナガト・イラスト

死者のメッセージを受けとる女性、山門津多恵が指定された人物を尋ねて伝える連作集。前に第2巻の記事を書いてからほぼ一年を経過していた。世相は、この物語の密接な背景である東日本大震災から時の流れに惰性のように身を任せ、当事者の苦悩に背を向け、共感と想像力を失ったかのような不寛容な様相を見せているのが、痛ましい。共感、それは私がここ数年、最重要課題としているものであり、当然本作を読む際にも痛切に感じる。
そして第3巻となる本作で、シリーズは一先ず幕を下ろすようだ。今回は、各作品、設定上、確かにあってもおかしくないアイディア、同一人物に、複数回、複数人物からのことづて、というユーモラスな味を加味したり、邦楽を小道具に彩を添えたり、現在、荒んだ生活をしているように見える人に、心を幾度も救われた故人のことづてというシンプルな中に、深読み可能な凝った構成などを展開した上で、福島を舞台に、未だ故人の死を受け入れられない人、というまさに原点と言っても過言でない世界に挑んだ上で、掉尾を飾るエピソードは、ことづての相手は、あの人、というかこの人だったのか、というべき人物に捧げられる。
そこにあるのは、最近で言うならLGBTの告白にも通じる、それ自体をこれから特別視しない、もう隠さなくてもいい、さらに加えて何事も、もう自分独りで背負うな、背負わせない、という社会のあるべき原点への回帰を求めた、静かなるアピールだと私は受けとった。

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2016年12月19日 (月)

本感想:「バンドガール!」 #濱野京子 作、#志村貴子 絵 偕成社

前半は、極めてシンプルな少女目線での「バンド始めました」物語だが、バンドという音楽活動を通じて少女の五感が刺激されると認識が広がり、この社会の背景が見えてくる後半、一気に物語は活性化する。
すると、やはり濱野京子の世界だ、オーソドックスな風刺SFの手法にして、端正な筆さばきは鋭い切っ先となる。
※あまりネットの他の書評に言及したくはないが、「政治」が入るのを嫌がる感想がいちいち湧き出る人は、今の世の中「普通って何だ?」と自問してみることだ、そんなものがどこにある、むしろ例外・異常だらけだ。
さて、話を戻して、
バンド活動も、音楽は二人以上いれば様々な対立事項が現れる、少女達のアイデンティティの目覚めも育ち始める。さらに少女のバンド活動を通じて見えてきた社会背景は、大災害、大事故を通じ、日本の生活環境は汚染され、生活区域は狭くなり、首都は移転、生活水準は低下、ハイテクだけが残り、少子化は進み、学校内の課外クラブ活動は成り立たなくなり、地区の児童館がクラブ活動の中心拠点となった社会。社会不安が人々の心から余裕を奪い、音楽活動も「歌」に対するマスからソーシャル、パーソナルまでメディアによる自粛圧力や、表現抑圧の息苦しさ。
こうした諸事情が少女のささやかなバンド活動に無縁ではないことを知ると同時に、少女はささやかな抵抗と現状打破を試みる。まさにロックの精神ではないか(笑)。
※私自身は、日本の学校内の課外クラブ活動は行き詰っている、欧米式の地域自治体によるクラブ制に転換すべきではないかと思っている。うがち過ぎかもしれ合いが濱野京子もそう思っているのではないか。

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2016年7月18日 (月)

本感想:「すべては平和のために」濱野京子・作。白井裕子・絵

日本児童文学者協会創立70周年記念出版「文学のピースウォーク」叢書。新日本出版社。作家「濱野京子」の為のお膳立てはそろったという感じだ。
昨今のニューストピックを振り返れば「戦争請負企業が跋扈するなら国家紛争調停企業が台頭するのは時間の問題」一方で「一人の少女の言動が世界を動かす」のも夢物語ではなくなった。それならば・・・と思考が展開していくのは当然かもしれない。さらに前世紀の眉村卓の作品群を彷彿とさせるのも、私の見当違いではないとも思う。
いつも書くことだが、私にとって濱野京子の小説は共感の世界。文学的な修辞、隠喩、手管、隠し玉、裏技の類はない、素手で真っ向から対峙する世界だ。今回はその意味でも書名からして、これまでの濱野京子の総決算ではないか、という期待で臨んだ。
物語進行の新機軸として序盤から一節毎に、ドキュメンタリーやノンフィクション的な畳み込むような記述の連続。これは、どこの国のどのトピックがモデルというものではない、世界の諸国の諸事情から抽出されてどこにでも、どの事情にも当てはまる。それが一気に架空の小国の小さな街に収斂されていく。
物語はまだ選挙権もない17歳の少女、平井和菜に課せられた地域紛争調停、期間はわずか丸二日。作中でもむだな描写をしている暇はない。彼女は限られた時間で真実を見極めなければならない。
紛争という名の欺瞞に満ちた戦争当事国の当事地である街の限られた当事者達が、和菜に、真実の断片を凝縮された情報として提供する、現地到着から4日目に和菜は人々の期待に応えることができるか。一方で各々の「思惑」を越えること=出し抜くことができるのか。
読了後、私は、和菜は期待に応えた、思惑を出し抜いた、と評価する。それは、フィクションではなく十分にリアリティのある結論だと思う。これは未来の物語ではあるが、上記したように重ねて昨今の世界のニュースを見ていれば、信じられる。
グローバリズムとインターネットが、理想なら世界を身近にする筈なのに、現行では「類は友を呼ぶ」止まり。
限定した興味のサークルだけになったネット社会に押しつぶされてしまいかねない「生身」の個人とその事情を忘れてはならないと警鐘をならす一冊だ。
※蛇足だが、制約された要件の中で効率的な進行のために通訳兼案内役として日本出身のフォトジャーナリスト住井美香なる人物が登場する。さらにこの本書巻末の解説者にちなんで以下私個人の読書体験。
私が「DAYS JAPAN」誌から学んだことは「日本人は慰安婦問題を韓国、中国だけを相手にすればいいと甘いことを考えていたら世界から次々としっぺ返しを受ける、世界を敵に回しかねないぞ」ということだ。

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2016年3月 3日 (木)

本感想:ことづて屋 停電の夜に 濱野京子・作 カスヤナガト・イラスト

文庫書き下ろしの連作もの(短編集でも書き下ろしの時代なんだな、月刊誌が減る訳だ)、前作「ことづて屋」に続くシリーズ第2集。前作の感想 で、このトリオはシリーズ化できると書いたが、やはりさっそく続篇が来た。
前作が2011・3・11の震災前後のエピソードで、今回は震災後のエピソードが続いている。但し、「ことづて」の内容は震災の時の回想、というものもある。
やはり私の思うところでは前作感想でも書いたように、ここで「ことづて」とは、弔いとは残された生者の為の者、という隠喩であり、相棒の大迫恵介が津多恵に施す化粧は、探偵の変装であり、呪術的要素でもあること等を踏襲して物語は進行している。
今回はさらに、津多恵の実家の父親との帰省中描写や、飲酒等の経験的成長(?)、美容院店長竹沢怜が津多恵自身によりそった化粧を施す描写などが加味される。
また前作からだが、津多恵は訪問先で毎回、ささいな点から「推理」をしている。津多恵は単なるシャーマン(シャーマンが単なる者かと言えるかは問題だが)ではなく、他人の人生の秘密を解く探偵でもある。
内容だけでなく、叙述、構成の上でもいわゆる創作のお約束パターンの一つ「悪魔との契約」にずばり挑戦して見せた。
※余談だが、悪魔に魂を売る契約で願いをかなえてもらいながら如何にして悪魔を出し抜くか、とか、三つの願いをかなえてもらおうとするが、何でも願いがかなう事とは、結局何もかなわないに等しいことだ、というオチ話とかだ。さらに余談だが、昨今のネット世代、電子ゲーム世代などの若い子は、こういうお約束をしらないで、その手のパターンのアニメを観て平気で先行した電子RPGの設定の「パクリ」だと騒ぐんだよな。
他に、津多恵が超方向音痴という設定があるのだが、情報過多な生者の現実に彷徨う姿だ、と想像すると私はしっくりする(ややうがち過ぎか)。小説全体が各篇、情報伝達的な背景描写は極僅かで、静かな印象で覆われている。物語が「うるさくない」のだ。

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2015年12月31日 (木)

本感想:「空はなに色」作:濱野京子。絵:小塚類子。そうえん社。

嵐のような女の子。昔からそういう物語はあるね。予期せぬ嵐のように現れて、主人公の日常を書きまわして台風一過のようにさっと去っていく。後に残るのは、少女のいた記憶とそして・・・。というか私の経験では、短編読み切りのマンガでよく読んだ。岩波児童文庫の翻訳ものにもTバックの娘が突然現れて街は大騒ぎってのがあったようななかったような。
神田の小学五年生の女の子規子(ノリコ)の夏休みに、突然埼玉の中学生の従姉美蘭(ミラン)がやってきた、金髪、タンクトップにネイルアートにウソだらけ?のマイペースに振り回されっぱなし。
美蘭は事ある毎に自分の所(関東の北部?)には何もない、とぼやくが、対して都心の行楽地や少子化の小学校の空虚さも規子の目を通じて映しているかのようだ。
そして原発再稼働反対デモにも出くわす二人。
「空はなに色」に見えるのか、美蘭が去り夏休みが明けた規子にはこの問いが浮かぶ。空にはいくつもの色がある。だから答えも人によって違う。自分も友達も家族も色々な顔があることに規子は思い至る。友達の事も何より自分自身を事あるごとに決めつけていたのではないか、と。
10月美蘭はもう一度現れ、規子を誘ってデモに参加する。そこには意外な人もいた・・・。※ここにこの人がいた、という件はいい、実に心地いい。
そして、少子化で簡素な(とはっきりとは書いていないが)学芸会の準備を通じて何か規子は変わった。
※人に色々な顔があるという話と言ったらそれまでだが、私には、かつてこの国に大勢子供がいた時代の子供だった事を思わずにはいられない。そういう時代の対照もされているかのように私には読めた。あの頃は少人数授業が実現できれば全てよくなると思わずにはいられない程の騒々しさがあったものだが、それが実現したこの世界はどうだろう。教室の先生も子供も倦怠感にとらわれ心弱くなってしまったかのようだ。外に出れば今時のデモに、ネットという奴は何であんなにビビったり胡散臭いと感ぐったりするのか、疑心暗鬼だらけだ。嘆かわしい。

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2015年12月12日 (土)

本感想:濱野京子・作「アカシア書店営業中!」森川泉・絵。あかね書房

児童書の品揃えがいい、とある街の本屋。そこがスーパーマーケットチェーン店に変えられてしまいそうな雰囲気。本好きな小学生達と児童書好きな、正規店員、バイト店員が本屋を、特に児童書コーナーを盛り上げる為に知恵を絞る奮戦記。
いつものことながら、濱野京子の世界は共感を誘う舞台や題材で胸が痛くなる(笑)。人に読んでもらいたい本を人に勧める、人に勧められる、いずれも一筋縄では決していかない。勧める、勧められる行為は簡単だが、結果が出るとは限らない。時には反発を招くものだ。私自身、反発されたことも、反発したこともある。加えて、街の本屋が消えてゆくエピソード。私の住む街でもそうだから身につまされる。街の本屋だけではない、新宿で老舗大型書店に対抗するように進出した大型書店の新宿支店は児童書の品揃えが多くて気に入っていたんだが、撤退したのには驚いた。※おそらく濱野京子もそこでピックアップされた作家の一人だったから少なからぬ衝撃が本書執筆に影響をしたと思われる。
小学生の子供達が知恵を絞るだけではない、児童書コーナー店員も、本を愛さない店長と対立し、児童書大好きなバイト店員と協力しながら、昨今定着した手書きポップや掲示板など工夫を尽くす。さらに間接的に、学校図書館の司書教諭、主人公の家族、親戚までサポートする。本と書店を通じて老若男女が結びついていく。こういうことは電子書籍ではなかなか難しいのではないだろうか。
リアルだろうがFTだろうが本に対する愛着は、ネットと電子書店に押されてもまだ老若男女を問わない。いずれこの時代も変わるのだろうが(※私自身二十年前には既に本の置き場に困り始め、電子書籍が普及したら、新刊どころか蔵書も絶対にそっちに買い変える、と公言していたがいまだ果たせない古いタイプだ)今この時、本と本屋に対する愛を伝えていきたい。

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2015年9月12日 (土)

小説感想:濱野京子・作「小さな花束」NHKオンライン「オトナヘノベル」より

濱野京子が活動範囲を広げている。NHKのETV「オトナヘノベル」のインターネットサイトに視聴者の体験談を小説化した「オトナヘNOVEL」に短編を発表した。サイト上で無料で読める。
SNS全盛時代に生きる今の若い子達の悩みを小説化したものだ。大きくまとめれば、すでにあちこちで取り上げられているSNSの問題点は、スマフォというハードとLINEやツイッター等で友達とのつながりが、オンになりっぱなしで、心も体も疲弊する。その一事例を描いたものだ。同サイトの掲載されている他の作家達の作品群も、いわゆる炎上などを巡るものが多そうだ。
濱野京子がそういう最新トピックに挑んだのは小説の中身だけでなく、発表の場もNHKのサイトという意欲の現れだ。
未だ十代前半の子にはささいなきっかけで疲れが突然増幅されることがある。もがけばもがくほど這いあがれなく悪循環。ツールをオフにして立ち止まり根本を見つめ直すというのは大人の才覚。理屈ではすまされない。いや昨今は大人でもオフできなくなっているのか?。おっと小説の感想から外れて自分語りになってしまった。
作者のいつもながらのシンプルな叙述は、媒体やツールは変わっても根本は変わらない少女の苦悩に一行ごとに共感を誘う。
花は人の心をなごます。しかし花自身は何も言わない。花を見た人が自分で自分で励ますのだ。と誰かが言っていたような気がする。ここで強烈な印象を残すのがただ咲く花ではなく、ブリザードフワラーという加工品であることだ。自然と、人の手を加える作為のどちらかを一方的に肯定否定するものではなく、その両方から生成されるものが青春を一歩踏み出させる可能性。

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2015年4月 5日 (日)

本感想:ことづて屋(ポプラ文庫ピュアフル)濱野京子・作 カスヤナガト・イラスト

ある日突然、死者からの声が聞こえ、生者へのことづてを頼まれる女性と、その実施にあたり対象者への訪問を手伝う、美容師の青年の物語連作。濱野京子としては、珍しい超自然的な設定、というか隠喩といってもいいだろう。
私は、葬儀というものは、結局死者自身の為ではなく残された者の為にある行事だ、残された者が如何にして過ごすべきか、心の決着をいかにするか、そういうものだと考えてる。そういう点から私が印象の強かった作品といえば、過去に吉田とし、の児童文学「大ちゃんの青い月」、近年ではライトノベルの企画でも「シゴフミ」というのもあった。(前者はこの点の先駆的名作。後者はアイディアを展開しきれなかったようだ)。
本書は、死者の伝言を「ことづて屋」山門津多恵が依頼の対象者に伝える行為を通して、故人と残された人々との様々な関係の過去と今が描かれるが、いずれも、何らかの心残りに「踏ん切りをつける」物語だ。
生と死で切り離されてしまった関係はもはや修復しようが無い。それゆえいずれも日常にリアルにありそうなエピソードばかりだが意味する所は重い。だからこそ物語が故人に振り当てる役割は、生者を気遣い、いくばくか心の平穏を回復させようとするものだ。
この「ことづて屋」の構成だが、津多恵が平凡な目立たない女性で、ひどい方向音痴で、谷中の霊園の辺り(※本書を読むまで私はてっきり文京区だとばかり思っていました)を歩くと落ち着くという設定。生者の情報過多な世界に翻弄され、彷徨い、その反動としての「あの辺り」に親和性を感じるのかもしれない、と考えると私は共感する。
相棒の青年美容師は、津多恵に話しかける口は悪いが「仕事」に向かう彼女のナビだけでなく、毎回凝った化粧を施す。化粧による変装や癒し、美容師だけに女性に優しい、というばかりでなく、化粧というシャーマニズム的な要素の効果も私的には捉えられた。
彼の働く谷中の美容院の店長は、中性的で女装が趣味という気のいい男性。二人を温かく見守る。
このトリオがいい。これでもっとミステリーもできると思った。本書も人の心の秘密を描くミステリー的な作品といえるし。

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